薬の開発のコストが年々増加することにより、製薬企業の開発リスクの増加、医療費の圧迫など、人間の健康な生活への影響の問題が懸念されています。
このコスト増加の原因の一つとして、薬の開発における細胞や動物実験を用いた薬の効果や安全性の試験の限界があります。
この限界を突破する方法として、Organ-on-a-chip(臓器チップ)という技術があります。
近年、FDAが医薬品の承認で動物実験の義務を撤廃し、臓器チップなどの技術を代わりに使うことを示すなど、実用化の取り組みも進んできています。
これにより、動物実験よりも試験の正確性、倫理的課題などの問題を解決することが期待されています。
今回ピックアップする論文は、この臓器チップに関するReview論文「Human organs-on-chips for disease modelling, drug development and personalized medicine」で、2022年にNature Reviews Geneticsに掲載されたものです。
前回の記事では、臓器チップの背景や課題など、全体的な所に焦点を当てたものですが、今回ピックアップする論文は臓器チップの応用例についてです。
開発された臓器チップがどのような臓器機能を再現し、どのような疾患を再現し、臓器チップを使うことでどんな評価ができたのかが解説されています。
再生医療・組織工学という人工的に臓器を作る研究のまとめ。
研究の背景とか課題とか
新薬の開発において、これまで動物実験が主流でした。
しかし、動物実験は費用、時間などのコストがあるだけでなく、倫理的にも問題視されています。
また、コスト面・倫理面での問題の他にも、さらに臨床試験結果を正確に予測できない問題もあります。
そこで注目されているのが、Organ-on-a-chip(臓器チップ)と呼ばれる、マイクロ流体培養技術です。
これは臓器レベル、生物レベルの機能を小さなチップ上で再現する技術で、マイクロレベルの微細な流路を持つチップの上で細胞を培養し、培養液を流すことで体内の血流などを再現します。
これにより、組織の界面の構造や生理機能・疾患を再現することができます。(肺でのガス交換、腸での吸収など)
2000年初期から臓器チップの研究が加速し、肺、肝臓、血管、脳、腸、腎臓など様々な臓器機能を再現したモデルが構築されてきました。
特に、2010年に報告された肺の血管-肺胞の界面を模倣した肺の臓器チップが大きなインパクトを与え、被引用件数も4600件(2025年6月)と、その影響力の大きさがわかります。(R)
幹細胞やオルガノイドの技術なども同時に発達してきており、臓器チップとの技術も組み合わせて、臓器の構造・機能、疾患のメカニズムの再現、その治療効果の検証など、様々な用途の開発が進んでいます。
そして現在は、臓器チップが動物モデルと同等か、優位かを実証することを目標とした研究のステップまで進んできています。
これを実証することができれば、動物実験の削減、個別化医療の現実が近づきます。
このような臓器チップの動向に対し、このReviewでは下記の項目について整理・解説されています。
- in vitroモデルの種類、臓器チップのデザイン、Body-on-a-chipの紹介
- ヒト患者の臨床結果を模倣し、医薬品開発や個別化医療屁の応用例
- 臓器チップが動物実験に置き換わるための課題(大学・企業)
Reviewで注目した内容
なぜ動物実験の代替法が必要なのか
理由の一つが「動物実験はヒトのメカニズムの再現ができない」こと。
新しく開発した薬を承認してもらうために、動物実験は避けては通れません。
その反面、有効性・安全性を正確に予測できない問題がありました。
また、基礎研究においても、ヒト疾患をマウスモデルで再現した研究が多く、ヒトを正確に再現できていない条件で得られた知見が土台になっていることを問題視する意見もあるようです。
近年開発されている、新しい薬(抗体、ウイルスベクター、siRNA、ゲノム編集など)は、ヒトに特異的に作用するメカニズムのため、動物実験での検証がより難しくなっている背景もあるようです。
臓器チップが生まれた背景
そこで、MPS(Microphysiological system)などの動物実験の代替法(New approach methodologies)となる培養技術の開発や適用が進んできています。(記事:NAMsについて)
このMPSの開発方針は下記の2つの方向があります。
- 複雑な構造を持つ3次元培養(オルガノイド、組織工学)
- 動的な流れを組み込んだ培養デバイス(臓器チップ)
現在のところだと、オルガノイドなどの3次元組織は臓器構造や機能(薬物代謝、毒性など)をある程度再現することはできています。
一方で、吸収、分布、代謝、排泄(ADME)や薬物動態、力学(PK/PD)を模倣することはできません。
これが臓器チップを用いることの大きな利点であり、動物実験の代替法の有力候補として期待されるところです。
また、オルガノイドを臓器チップのデバイス上で培養することで、液体の流れの刺激により、オルガノイドの機能が向上することもわかってきているようです。
このことから、オルガノイドと臓器チップを併用した取り組みも注目されているようです。
このような臓器チップを連結させることで、ヒトの体内の臓器の繋がりを再現することも取り組まれており、動物実験でしか評価できなかったADME、PK/PDをin vitroでも評価できるようになってきているようです。
臓器チップの利用例(医薬品開発、個別化医療)
このReviewの目玉である、臓器チップがどのように使用され、どのような貢献をしているかについてです。
肺、肝臓、心臓、腸、腎臓、脳、血管、多臓器など様々な種類の臓器チップについての利用例が解説されています。
肺、腸などの上皮と血管の境界をモデル化するような臓器チップでは、
・感染(細菌、ウイルス)
・腸内細菌環境
・物質の交換、吸収
などの境界面での体内のメカニズムを再現している例。
肝臓、心臓などの臓器では、
・薬剤代謝
・薬剤毒性(抗がん剤など)
といった、薬の安全性試験などへの応用例。
脳では、
・パーキンソン病などの脳疾患
・血液脳関門を再現した、脳疾患への薬物の輸送モデル
などの疾患からその治療方法までの応用例
血管では、
・血管新生
・炎症
・薬剤の輸送
・がんの転移
・上記臓器との組み合わせ
などなど様々な用途に使用される例が示されていました。
臓器チップが動物モデルに置き換わるために必要なこと
臓器チップが動物モデルに置き換わるために解決しなければいけない課題は下記のようなものがあるとのこと。
- どの施設で作製されても、再現性があり、ヒトに類似した結果を示すこと。
- 臓器チップの性能基準、品質管理基準、検証方法を定義する必要があること。
- 既存のin vivoヒト臨床データを置き換えることができるか。
- 既存の培養細胞、動物実験と同等以上の効果があるか。
- 技術的課題(高品質な細胞調達、スループット性の改善、材料の薬剤吸着性)
上記の課題解決のためには、大学だけではなく、企業や国際的なコンソーシアムなど大きな規模で解決していく必要があるとのことです。
応用について思うこと
臓器チップの実際の臨床モデルとして使用されている例が紹介されたReviewでした。
肺の臓器チップの研究報告を皮切りに、肝臓、心臓、腸、腎臓、脳、血管など様々な臓器チップが開発されてきているとのことで、
このReviewでは、臓器チップを医薬品開発、個別化医療にどのように貢献できるのかについて、どんなチップをどのように作って、どのような評価に使われようとしているのか、その事例が細かく紹介されていました。
まだまだ論文レベルでの実用化前の段階ですが、最近(2025年6月)では、臨床試験の試験結果に臓器チップが貢献した事例が出てきており、徐々に臓器チップが実用され始めてきている状況です。
様々な臓器チップが開発されても、最終的には動物実験に置き換わり、実際の非臨床試験などで使用されなければ意味はありません。
これまで動物実験が主流であり、義務であった状況の中、別の実験に置き換えることは技術的にも心理的にもハードルが高いものだと思います。
新しい薬を作るために、臓器チップに置き換えたところで、どれほど結果が良くなるかもまだ明確にはわかりませんし、義務ではない試験をして、解釈の難しい結果が出るとそれはそれで厄介なものです。
そもそも、ただでさえ開発費が圧迫され、効率よく無駄を削減した開発が求められる中、義務でない+αの試験をしているゆとりも無いことがほとんどでしょう。
このような状況の中で、臓器チップを実用化するためには、臓器チップを使う価値を示していくことが大事です。
その価値とは、臓器チップを使うことで、「動物よりヒトに近い結果が得られるか」「どれほど開発費・費用を削減できるか」というところでしょうか。
このReviewでも臓器チップを導入することで開発費の削減や、利益の増加の恩恵が得られる可能性を試算する論文に触れられていて、徐々に臓器チップを導入する効果が見えてきているように感じます。
また、FDAなどのルールを決める機関等も、動物実験を減らし臓器チップなどの代替法を取り入れていく動きも積極的になっています。
いきなりルールを根幹から変えることはできないので、臓器チップの使用を義務付けることはまだできないようですが、動物実験の義務の撤廃など徐々に進んで来ています。
これにより、徐々に臓器チップの効果を示しやすい状況ができつつあるように感じます。
まとめ
臓器チップがどのような臓器機能を再現し、どのような疾患を再現し、臓器チップを使うことでどんな評価ができたのかが解説されたReview論文の紹介でした。
全体の背景はもちろん、特にヒトの疾患を模倣し、医薬品開発や個別化医療に応用する例の紹介が非常に参考になりました。
このReviewで紹介されていた各種疾患・評価モデル臓器チップに加えて、近年のFDAの近代化法などで動物実験の義務が撤廃されたり、製薬企業からも臨床試験の申請に臓器チップが貢献した例が報告されたりする状況を見ると、実用化の方向には進んできていると感じます。
少しずつですが、着実に臓器チップの効果が示されていき、動物実験に置き換わって実用化されていくことに期待です。
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