最近、SNSやYouTubeなんかでかっこよく仕事したり、とても稼いでたり、すごい人たくさん見かけますね。
その人みたいになりたいという憧れを抱く人は少なくないと思います。
もちろん、憧れの対象は著名人や、もっと身近な尊敬できる人なこともあります。
自分もそんな憧れを抱いていたその一人です。
本記事では、「憧れを抱いて、本当にその人のようになれるのか?」について考えたことを自分の生き方を振り返るがてらアウトプットします。
結論は、すごい人に出会って、憧れて「この人みたいになりたい」と思っても変わらないし変われないです。
研究者に憧れた、自分の生き方を振り返って思うのは、変わるためには行動と継続が必要だと感じました。
すごい人のようになりたいと思ってしまう
ネットが発達して、これまではテレビの向こうでしか知らなかったようなすごい人たちが、SNSやYouTubeでわんさか身近に感じることができるようになりました。
- すごい成果をだしてる
- かっこいい
- かわいい
- 稼いでいる
そんな情報に大量に触れる機会が多くなり、その人みたいになりたいと憧れを抱く機会がこれまで以上に多くなったように感じます。
実際私もかなりたくさんの憧れの感情を抱いていました。
- ものすごい業績を出して成功している研究者
- 小説の素敵な登場人物
- かっこいいゲームのキャラクター
そんな憧れた人たちになることができたのか?
結果はなれませんでした。変われませんでした。
変わろうと思っても変われなかったこと
憧れたけどなれなかった
今、私は無事にバイオ系の研究者になることができています。
そうなったきっかけは大学進学前に「ものすごくかっこいい生命科学の研究者」を取り上げた番組をみて、憧れたからです。
その人のようになりたいなと憧れました。
なりたいと思った気持ちを常に持つように、
- その人の言葉を手帳にメモして常に見えるようにする
- 録画を定期的に観る
- その人について調べる
なんてことをしながら、研究活動をしていました。
結果、研究者にはなれても、その人のようにはなれませんでした。
その理由を今考えると、「その人のようになるために、やるべきことができていなかった」という、当たり前の理由なのではないかと思います。
必要なことを理解していなかった
そもそも、何をすべきか理解できていなかったです。
理解していないから、なるために必要な行動ができていませんでした。
実際にやっていたのはその人の生活サイクル(朝何時から夜何時まで研究する)とか表面的な真似ばかり。
いくらその人みたいになりたいという気持ちを持ち続けても、人間の感情なんて数日持てば良い方ですね。
仮に持ち続けていても、行動が伴わない気持ちの維持に意味はありません。
運がいいことに、研究者になるために必要なことは行動と継続ができていたようです。
(意識してやっていたかどうかは別にして)
憧れた人のようになる!については、能力や運も要素としてもちろんありますが、その土俵に上がるためにすべき行動と継続はできていなかったということですね。
変わるために必要なこと
誰かのようになりたいという憧れを抱いて、結局なれなくて生きてきた私が思う、変わるために必要なことは、
「行動」と「継続」+「考えること」
行動
行動するためには、むやみやたらに表面だけ真似しても意味はないと思います。
変わるために「必要な行動は何か?」を分析、見極めた上で取り組む必要があると思います。
よく言われているように、考えのない努力はどれだけしても報われません。正しい努力を積み重ねる必要があります。
継続
行動を継続するためには、続けるための仕組みが重要になります。
モチベーションなんて、その日の体調や気候で左右されるようなものは継続の助けになりません。
人間の気持ちほど当てにならないものはないと言っても過言ではないと思っています。
「人生を変える習慣の作り方」の読書メモでもアウトプットしたように、行動を継続するためには気持ちに左右されないで習慣化する仕組みが必要になります。
例外
何事も例外はあります。
この場合は、心の底から好きなこと、楽しいこと、やりたいと思っていることです。
これは意識して行動と継続をしなくても、気がついたらできています。
おそらく、世の中何者かになれている人の多くは、このように心にしたがってやっていて、気がついたら何者かになっていたという人だと思います。
私の場合、研究者がこれでした。
そして、誰かのようになりたいはこれではありませんでした。
そもそも誰かのようになりたいに意味はない気がする
誰かのようになりたいと思って、なれなくて気づいたこと
私自身、多くの現実の人や架空の登場人物に憧れて、その人になりたいという思いを抱きました。
その人になりたいと思っても、なれないし、なるための努力って果たして楽しいのでしょうか?
実際に1/3ほどの人生を歩んでみて感じたのは、すごい人のようになりたいよりも、自分が心からありたい姿、やりたいことを実現できるように、自分がすべきことを考えて行動した方が、楽しいし、自分にとって価値があるのかなということです。
憧れて努力していた時は、常に自分の心に言い聞かせて、自分がなりたい姿とかやりたいことからそれていたように感じます。
そして、これは楽しくなかったです。
仮に、行動と継続ができていたとしても、バックグラウンドや環境が違うからその人のようになれる確率はのもすごく低いでしょう。
そして、思うように近づけなくて、比較してしまい、自分のできなさが嫌になってしまうと思います。
実際、あの人は◯◯歳で△△の業績を出しているのに、自分はできなかったという比較をして「自分はダメだな」とか自己嫌悪しました。
「誰かのようになりたいに意味はない」とは断言できないけれど、これまでの自分の経験として、自分がなりたい姿、やりたいことについて、他人を切り離して向き合った方が人生充実して楽しいと感じました。
自分の生き方というのはまさにこれなのかなと思います。
余談、誰かが持っているすごい技術を習得する努力は楽しい
余談というか、補足というか。
誰かのようになりたいという憧れを達成する努力は私にとって楽しくありませんでした。しかし、誰かが持っているすごい技術を自分のものにする努力はすごく楽しいですし、かなり勉強になります。
バイオリンを趣味でやっているのですが、とあるバイオリニストのすごくかっこいい奏法にものすごく惹かれたことがあります。
その人の奏法を習得するために
- 流派を調べる
- 流派ごとの特徴は何か勉強する
- その奏法で綺麗な音を出すための体の動かし方を調べる
- 動画を何度も見返して、真似をする
- 鏡で自分の姿を確認して動画と比較する
という感じで、かなり研究しました。
結果としてその人のようにはなれませんでした。(なれてたら今頃バイオリニストやってます)
しかし、自分のバイオリンの技術はかなり上達したし、できることが増えたので演奏するのがもっと楽しくなったし、周りからもそこそこ評価してもらうことができました。
これは、惹かれた人のようになりたいという憧れではなく、自分自身こんな感じで演奏したいという姿を体現していたのがその人で、そのような演奏する技術を習得するために、必要な行動は何かを理解していったから、できたことなのかなと思います。
要は、その人になることが目的ではなく、自分がなりたい姿を明確にしてくれるきっかけになったのがその人だった。だから楽しくできたのだと思います。
その人になりたいと思ってやっていたら間違いなくハイフェッツ病にかかっていたと思います。
(恐れ多いですが、惹かれたのはヤッシャ・ハイフェッツさんということです。)
まとめ
以上、「憧れを抱いて、本当にその人のようになれるのか?」について考えたことを自分の生き方を振り返るがてらのアウトプットでした。
結論は、人に憧れるだけでは変われないです。
変わるためには、「行動」と「継続」が必要だと思います。
そもそも、自分がなりたい姿、やりたいことという、一生をかけて全力で取り組んで達成できるかどうかわからないことで精一杯なので、誰かのようになりたいとか思っている余裕はないはずですね。
自分自身これに気づくのに随分時間がかかりました。
図らずも、研究者になるために必要最低限なことはできていたのは運がよかったと思います。
運の影響を極力低くして、なりたい自分、やりたいことをできるように、何をすべきか「行動」を考え、どうやって「継続するか」を考えることが、変わりたいと思った時に考えることなのかなと感じます。
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